目黒5歳児死亡事件。可愛い女の子が「パパママおねがいゆるして」とノートに書きながら虐待により亡くなった事件です。

児相や警察が何度もかかわっていたにもかかわらず、なぜ救えなったのか。…などと新聞では報道されているが、福祉の現場を知る私には(子どもの現場はまだちょっぴりだが)、いまのシステムでは子どもも親も救えないに決まっていると思う。

よりみちハウス構想がたちあがる前のこと。4年前、2014年の秋に、私は地主のお父さん(建設中に亡くなってしまった)のケアマネになり、同時に元町で「けみく」という認知症カフェが始まり、そこに参加したことから、親しかったデイサービスぱれっと(オーナーで管理者の飯倉さんがホスピタリティに溢れる人)でもカフェをやろうという話になり、けみく立ち上げにもかかわったMさん、さらに近隣のケアマネ仲間2人も加わって、ぱれっとを使わせてもらってのコミュニティカフェの準備をしだした。

その年の10月。自宅(もりのきもち)は、その前年、路地の向かいに6軒新築のお家ができて、それぞれ挨拶はしてくれたりしていたが、みんなともう少し知り合いたい気持ちがあったので、外(ボロサンバーの停まっている駐車場など)でハロウィンの飲み会をすることをもちかけた。しばらく前にも、近所の他の場所で何軒かでバーベキュー的なことをやっていたのを見て、楽しそうだなと思ったことがあったので。

自宅では私が実家に戻ってから、毎年クリスマスパーティで30人位の人をよんでいたが(母親譲りの宴会好き。母は葉山の農家の出で10人兄弟。正月と夏にものすごい宴会をする)、ケアマネになってからは忙しくなってしまい、クリスマスもできなくなっていた。クリスマスも、近所の友達、バド仲間、昔の仲間などをミックスして、毎年かなり盛り上がり、楽しみにしてくれていた人も多かったのだけれど。

10月31日、初のご近所ハロウィン飲み会は大いに盛り上がり、それぞれのお家が料理を持ち寄って(みんなハイソなのですごい料理が出てくる)、通行する人にもワインを振る舞っちゃったりしてノリノリであった。

…その夜。家の前で飲み喋っていた私のところに一人の女の子が現れた。

近所の中学3年生という。ちょっと変わった雰囲気の子だったが、もう遅い時間だったので、帰らなくちゃだめでしょうと家まで送ったところ、親とうまくいっていないということを打ち明けられた。

私もかなりワインを飲んでいたので、明日話にいらっしゃいとなり、それから、彼女が私の家へ通ってくるようになった。かなり遅い時間に、ほぼ毎晩。ご飯も食べていないというので食べさせた。

が、それを1週間くらい続けたところで、私もこれはまずいんじゃないかと思い始めた。未成年のお嬢さんをなんとなくいさせるようになって、親御さんとは連絡を取りにくいし(どんな人かもわからないし)、下心があるわけではないなど伝えたいけど、どうしたらいいのか。

それで、区役所の子ども家庭支援課だとか、児相だとかに連絡して事情を説明したのだけど、「個人情報なので教えられません」の一点ばり。どうしたらいいとかのアドバイスもゼロ。「だって、毎晩来ちゃっているのですよ。それでいいのですか?」と言ってもらちがあかない。

対人援助のプロとして言わせてもらえれば、せっかくおせっかいなおばさんがかかわってきている(すでに関係してしまっている)のだから、有効な民間の社会資源として、本人、保護者にも同意を取った上で、支援チームに加わらせていくのが行政などがコーディネートしていくべき内容です。

むしろ人間関係を調整していく力は、役人より町の人の方がよっぽどある。

区役所も児相もどうにもならない。さらに、他の公的機関からも、「もうかかわらない方がいい」的なことを言われ、私は激怒。結局奴らは(人間がネガィブにある集団を見ていく時には、そういう言語になる。本当は奴らの中にもやる気のある人もいる)、仕事を問題なく流していけばいいので、本当に必要なこと、やっかいなことにはかかわってこない。訪問してみたり、電話してみたりして、やりました、の実績を作って終わり。だいたいがそんなもんです。

ケアマネとして要介護の人(特に認知症の人など)にかかわるようになり、自分が入るまでの役所の記録など見ても、クラクラするようなことが多いです。君たちは「はじめてのおつかい」かい。もうちょっと頭を使って、工夫できないかな。当事者意識や問題解決能力がなさすぎるぞ。

いまは若い人も、人間関係の調整を第三者にゆだねる発想が強い。◯◯の機関に頼めばなんとかしてくれるのではないか。私の知る限り、残念ながら、ほぼどうにもなりません。モノとかは結構言うとなんとかなることが多いが、ヒトはほぼ無理ですな。

上記の女子中学生は、その後、コミュニティカフェ・おしゃべりばの仲間たちでみるようになり(実はおしゃべりばというネーミングも彼女!)、そこから、大和町のいろいろな店が居場所になってたくさんの人がかかわってくれ、高校生になってバイトもじゃんじゃんやるようになって、なんとなく育っていったのでした。

たまにはうちにも来て、べたべたしていったり、修学旅行のお土産をくれたりする(感激ですよね)。

けっこうちゃっかりしているところもあって、生きる力があるので、なんとかなっていくと思う。いまは高校も卒業し、バイトをしながら次を考え中です。

そんなことも、実際救ったのは町の人たち。

だから私はよりみちハウスを建てたんです。

町の力で子どもたちを救い、育てよう。お父さんお母さんにも生きやすい地域を作っていこう。

みんないい人たちばかりだから、できると思います。

悲しいことは、もう嫌だ。

 

H30.6.17