6月20日、よりみちハウスで「よりみち月例会・第1回」として、「この場所は昔アイススケート場だった~幕末から明治初期の立野大和町~」というテーマで、山元町在住の郷土史研究家・棚橋誠さんの講演会が開かれた。

一般の町の人によりみちハウスを公開するはじめてのイベントでもあった。

本当によりみちハウスの場所がアイススケート場(氷すべり場)だったことが説明され、地元出身者を含めた30人の聴衆は、内容に魅了され、深く聞き入った。

1864年から1865年にかけて、現在の山下町の外国人居留区に住む外国人たちの運動のために、地蔵坂~山元町~不動坂~根岸~本牧~麦田~桜道~地蔵坂上と周回できる遊歩道が、幕府の費用負担で作られた。大和町はその遊歩道の中心部にあたる。

幕府は外国人を東海道の方には行かせないようにし、その遊歩道の内部や近辺にいろいろな遊興施設を作った。大和町で有名なのは鉄砲場。根岸競馬場ができるまでは、鉄砲場で直線コースの競馬も行われた。さらに明治に入って1873年(明治6年)には大和町1丁目あたりに、陸上競技場も作られている(鉄砲場は大和町2丁目)。

これらのことを細かく調査研究されているのが棚橋さん。現役時代は電気関係の製品を開発・製作する部署でお仕事をされ、一つ一つのことをうのみにしないで、自分で裏を取って確認するという作業が職業的に身についたそう。相手がもってきたものをそのまま信用して使うと、あとで製品化した時に問題が生じ、クレームの嵐を浴びることになってしまう。かなり時代に影響を与えるような量産される製品を作られていたようで、問題や不具合を生じさせないために、何事も懐疑的にみて、さまざまな角度から検証を加え、信頼に足りるものとする性分になった。

その棚橋さんからみると、記述された歴史にも、かなりいい加減なものがあるという。そこは元ネタがどうだったかの推論も交えながら、資料の中から真実を探り当てて、確度の高い情報にしている。

問題のアイススケート場については、横浜毎日新聞の明治9年1月19日号に、根岸村字立野に、青木安兵衛が氷スベリの場を開く、という記事が掲載されている。1月16日から開くという記事だったので、明治9年1月16日が日本初のアイススケート場開設の日、と言われるようになった。棚橋さんは付近の大正昭和期の土地所有者の名前を調べ、大和町1丁目、よりみちハウス周辺の所有者が青木さんだったことをつきとめている。上野町側にアイススケート場があったのではという古老の話などを記載した資料もあるそうだが、青木安兵衛がはじめた氷スベリ場については、棚橋さんとしては、大和町1丁目にほぼ特定。そこから山影になる地形にそって、上野町にも追随する施設ができた可能性はあるだろうとのこと。

1875年頃には、横浜もずいぶん寒かった。いまよりは平均気温で2.5度ほど低かったデータも図示。冬の夜中はほぼ零下だったと考えられ、水田に張った水を夜中に凍らせ、機械で平らに削ってスケート場にしたのが青木安兵衛さんの商売。

よりみちハウス前に、「アイススケート日本発祥の地」という碑を建てても間違いではないことが確認されたのであった。